INDEXへ戻れます。

モドル |  ★  | モクジ

● ひとり --- ご飯を美味しく食べる方法 ●

 重い鉄扉が音を立てて開いた。
 蒸し蒸しとした体育館の中を、不意に風が吹き抜ける。冷たくはないけれど、火照った体をクールダウンするにはそれでも十分だった。
 あたしはサーブしようとしていたボールを、すぐ横に置いておいた。
 隣のコートの中では、まだ水色のウレタンボールが、行ったり来たりをくり返している。 あたしは学年指定の濃い緑色のジャージの袖を捲り上げ、首に掛けたタオルで汗を拭い取った。
 入って来たのは樋口……いや、樋口先生だ。振り向かなくても分かる。きっかり五時三十分。ウチのクラスの練習時間の終わりの時間だ。
「はい、練習終了。次のクラス入る前に出てくこと。忘れ物しないように」
「先生、やっぱ二日に一度じゃ、全く練習になんないって。明後日はもう大会なのに」
「まあ気持ちは分からないでもないけど、そう思ってるのはウチのクラスだけじゃないからね」
 クラスの男子と樋口先生との会話が終わり、殆どのクラスメイトが帰り支度を始める。
 あたしは出来るだけ早く更衣室へ向かい、ジャージから制服に着替える。
「在裏ちゃん、これからどっか寄ってく?」
 美由紀のソプラノが肩越しに響いた。
「ごめん。今日は炊事班の最後の打ち合せあるから。学校残る」
「そっか、残念だな。駅の近くに新しい喫茶店出来たから、一緒に行こうと思ってたのに」
 美由紀はくるりと身を翻すと、調子の外れた鼻唄を歌いながら更衣室を出ていった。

 

 あたしは部屋を出てすぐに、樋口の後ろに回りこみ、声を掛ける。
「樋口先生、タカモトの調子、どうですか?」
「あ、畔さん。一本なら保健室で寝てる」
「突き指……って普通寝ますっけ?」
「そうだよな、普通は。……完全なサボリだよ。運動神経は無駄にいいのに、球技は昔から鬼門だからって」
「確かに。……タカモトのは殺人バレーですからね。サーブで味方の後頭部にボールぶつけたりして。つくづく同じチームじゃなくてよかったと思いますもん」
 タカモトの殺人サーブを思い出し、自然に笑みが溢れた。
 樋口先生はあたしのほうをちらりと見て、それから柔らかく笑ってくれた。
 マヨネーズをやめよう。自分で決意したその日から、少しずつ少しずつ、体に溜まった毒が出ていくような感じがした。
 体育館を出ると、余計に風が心地好い。あたしは保健室まで少しの道程を、樋口先生の隣を歩いた。斜め三十度上から響くテノールが心に直接染み入る。
 どうということのない会話が、こんなにも心地良く響き渡るなんて思わなかった。
 廊下に入ると、音が反響するので、少し声のトーンを落とした。
「そういえば、タカモトに始めにジョビジョバのビデオ見せたの、先生だったんですね」
「うーん、正しくはCDだけどね」
「CDなんて出てるんですか?」
「うん、出てるんだよ。J−SIX−BABYSってアルバム」
「あ、じゃあ、もしかしてずっと前『うたばん』で歌ってた曲も」
「入ってる。でも、確か一本もMDに落としたの持ってた筈だけど」
「あ、アイツそんなこと一言も言ってなかったですよ? 人にはビデオ見せろとか言ってきたクセに!」
「忘れてたんじゃないかな。一本のことだから」
 あ、もうすぐ保健室に着いちゃう。
 少しでも話を引き延ばそうと、あたしは早口でまくし立てる。
「ですかねー。あ、そういえば、先生はジョビジョバん中じゃ誰が一番好きなんですか?」
「んー。マギー、かな」
「先生……それ、趣味最悪ですって」
「そうかな?」
「や、別に悪くはないですけど」
 話しているうちに、すぐに保健室に着いてしまった。
 一抹の寂しさと不安とで、思わず樋口の袖口を引っ張る。
「畔? どうした?」
 先生はこちらを見て、首を傾げた。あたしは顔が火照るのを感じ、うつむくことしかできない。
 ちらりと様子を伺うと、先生は困ったように眉根を寄せている。
(あ、この表情どこかで見たことがある)
 その時、不意に思った。それから、全部分かった。どうしてあたしが先生に反発したのか。どうして先生にひかれたのか。
 先生は、お父さんにそっくりだったんだ。
 顔や外見じゃなくて、雰囲気が。
 本当に優しいひとだった。あたしが何か欲しいとねだると、次の日には買ってきてくれた。けれど、どこかセンスが人とずれていて、頼んだ物とは違う、変な物を買ってきたりして。あたしがそのことで拗ねると、今の先生みたく本当に困った表情でうんうん考え込んでしまって……。
 ずっと忘れていたけれど、あたしはお父さんが大好きだった。ううん、今でも大好きなんだ。
 あたしは、手を離し、できるだけ自然を装って顔を上げる。
 困らせたかったわけじゃない。だから。
「じゃあ、タカモト起こしとくんで、先生は先に教室向かってて下さい」
「お言葉に甘えて。早めに終わらせようね」
 樋口先生はそれだけ言うと、廊下の奥へと消えていく。
 少しの間、先生の背中を見つめていた。
 広くて大きな背中だった。

 

「みーさーきー。立ったまま寝るんじゃないぞ?」
 目の前で手のひらがパタパタと揺れる。振り返ると、ドアの所にタカモトが立っていた。
「タカモトこそ、起きてたの?」
「ん、かなり前から。お陰で景吾くんと畔の話もバッチリ聞こえた」
「悪趣味」
「いいじゃん、別に。減るもんじゃないし」
 タカモトは悪気などこれっぽっちも無い調子で笑った。
「景吾くんと随分仲良くなったじゃん」
「まだ、好きかどうかなんてよく分からないけどね」
「何だかなー、あんまり話弾んでるみたいだから、疎外感感じちまったよ」
 その言葉に、少しだけ拗ねたような含みを感じたのは、気のせいだったのかな。タカモトを見ても、いつもの様子で全く変わった様子は無いように見えた。
 意外に感じ、思わずまじまじと見つめてしまう。
「タカモトでもそんな風に感じること、あるんだ」
「あったり前。オレはデリケートなんだから」
「良く言うよ」
「でも、本当、予定外だよ。こんなにも二人が仲良くなるなんて」
(予定外?)
 さりげない言葉だった。普段だったら聞き逃して、それでおしまいだったかもしれない。けれど、どうしてだろう。その言葉が心の縁に引っ掛かって離れない。
「ね、予定外ってどういうこと」
「オレ、んなこと言ったっけ?」
 タカモトはごくごく自然にそう言った。けれど、少しあたしから視線を逸らす。嘘を付いている、それが容易に分かった。
「どういうこと?」
「……くじに細工しただけだよ」
「細工って……」
「始めからあの箱の中には炊事主任のくじは入ってなかったんだ。景吾くんにくじ作るの頼まれてたから、別にしておいた」
 すっと、血の気が引いた。
 タカモトの声が途中から遠くに感じる。
「そうなんだ。全部、……タカモトの思い通りだったんだ。予定通りだったんだ。なのに、あたしは一人で頑張ろうだなんて……馬鹿みたい」
「違くて……」
「さぞや面白かっただろうね? あたしがあんまりにもタカモトの思い通りになって」
「畔、話を」
「元々嫌われてたのは知ってた。でも、ここまでされる筋合いナイと思う。……あたし帰るわ。もう、ウチに夕飯食べにこないでね」
 怒りに任せて、廊下をUターンする。
 後ろから何かタカモトが言っているのが聞こえたけれど、あたしは振り向かなかった。

 

 家に帰ってまず始めに思ったのは、こんなにも部屋が静かだったんだ、ということだった。
 ここ数日はきちんと見ない時は消していたテレビをつける。
 それでもまだ静かだった。
 ビデオを再生した。
 静寂は続いたまま。
 ぴんぽーん
 玄関のチャイムが一度だけ鳴った。おそらくタカモトだろう。そう思ったら、出ていくことはできなかった。
 それからはまた深閑とした雰囲気が続く。
 少し気になって、ドアの覗き穴を見た。当然のようにタカモトはもういなかった。代わりに、見覚えの無い漆塗りのお盆を見つけ、扉を開ける。
 床に小さめの丼と割り箸とが乗ったお盆が置いてあった。そばに小さなメモ切れを見つけて拾い上げると、そこには『畔へ』とだけ書かれていた。
 反射的に、小さくお腹が鳴る。
 そういえば、コンビニ弁当買ってくるのも忘れていたんだっけ。
 タカモトへの怒りが消えたわけではないけれど、空腹には勝てず、取り合えず失敬することにし、部屋へと持ち込んだ。
 丼の蓋を開けると、湯気をたてた親子丼が現れた。どうやら作りたてらしい。
「美味しくない……」
 一口、口に運んで思わず言葉が漏れた。まずくはないものの、美味しいとは思えない。
(タカモトの奴、料理の腕、落ちたのかな)
 考えてしまってから、頭を左右に振った。
 ずっと使っていなかったマヨネーズを掛けることを思い出し、冷蔵庫を開いた。でも、すぐに閉じる。どうしてだか、マヨネーズを使っても同じような気がした。
 どこかで分かっていたのかもしれない。
 胸にぽっかりと開いた穴を、そんなもので埋められるはずがない、と。

 夜が開けて、学校ではタカモトとは一言も話さなかった。
 夜にはまた料理が届いたものの、やっぱり味気なくて物足りなかった。
 原因はどう考えても、タカモトにあって。
 それが悔しくて、余計に悲しかった。
 あたしだけだったのかもしれない。
 友達だと思っていたのは。
 楽しいと感じたのは。
 だからこそ許せなかった。



「あれ、畔さん。一本見なかった?」
 新歓バレーボール大会当日、あたしと美由紀のチームは一回戦で敗退してしまったので、二人で木陰で涼んで居るときのことだ。
 背後からの樋口先生の声に、あたしは振り返った。
「知りませんけど」
「おかしいな。そろそろ炊事始めなくちゃいけないから、下準備を畔さんと二人で始めるようにって伝言頼んでおいたんだけど」
「そうなんですか」
「伝わってなかったのか。じゃあ、すまないけど教室に向かって貰っていいかな」
 先生は言うだけ言って、すぐに体育館の方へ走っていってしまう。
「あたしは……」
 言い澱んでいると美由紀が、行ってきなよ、と言った。
「タカモトくんと喧嘩してるみたいだけど、考えてもみなよ。早めに仲直りしないと、よけいに気まずくなるだけだよ?」
「でも、悪いのはあっちで……」
「ずっと一緒に居たいって思う気持ちがあるなら、意地張らない方がいいと思う」
 相変わらず美由紀は、何か勘違いしているみたいだったけれど。でも、その通りだな、とも思った。

 

 教室に入ると、そこにはタカモトが居た。
 クラスで集めた鍋やら食材やらを運ぶ途中だったらしい。機械的にダンボールに詰める作業を続けている。
 入口付近に立ったままあたしは口を開いた。
「一人で全部運ぶつもりだったの?」
 タカモトは何も言わなかった。
「ずっと考えてた。どうしてあんなに一人で食べる食事って味気ないんだろうって」
 窓の外の人の声やざわめきが、遠くで聞こえる。
 タカモトはやっぱり何も言わなかった。
 あたしは、一歩前に歩み出る。
「それは寂しいからだって、分かった。一人で寂しいから、マヨネーズや何かで誤魔化さないとやってられなかったんだって」
 顔を挙げてもくれないタカモトに、少し悲しくなった。ついつい、目線が下に落ちてしまった。
「タカモトも、本当は寂しかったんでしょ。だから、わざわざ夕飯一緒に食べようだなんて言い出したんだよね」
「畔」
 初めてのタカモトの返事に、あたしは顔をあげた。
 そして。
 我が目を疑った。
 あたしが見たのは、イヤホンを外すタカモトだったのだ。ヤツは今までMD――おそらくジョビジョバの――を聞いていたらしい。
「もしかして、今までの、聞こえてなかったの?」
「ん? え、何か言ってた?」
 体の力が抜けて、へたりこみそうなあたしに、タカモトはあっけらかんと言った。それは今までと全く変わらないタカモトで。反省の色も何にも無いようで少しムカツいたけど。それでも、少し――あくまでも少しだけだけど、嬉しかった。
「何でもない」
「そう言えば、畔ってオレのこと怒ってたんじゃ……」
「別に。もうそんなこと、どうでもよくなったよ。それより」
「ああ、早く支度始めないとな」
 タカモトは、一番大きなダンボールを渡して来た。詰め込みすぎのせいか、あまりの重量に思わず下に落としそうになって、側の机に下ろした。
「どうしてよりによって、一番重そうなの選ぶかな」
「だって、オレ、左右どっちとも握力二十キロくらいだよ。非力だから」
「だからって、普通、女の子にそういうことする?」
「いいじゃん。だって、畔さ、オレのこと好きだろ」
 突然、しかもあまりにもさらりと出た言葉にあたしは絶句するしかできなかった。タカモトはそんなあたしにはお構いなしに、わざとらしく首を傾げる。
「あれ、違うのか? オレ、畔んこと好きだから、てっきり畔もオレのこと好きなんだって思ってた」
「タカモト、それさ、あたしだからイイけど、……普通、誤解されるよ?」
 呆れ顔でそう言うと、やっと分かったようにタカモトは手を打った。
「もちろん、景吾くんに対する好きとは違うけどサ。んでも、キライより好きのが多い方が、いいよな」
「……そだね。あたしも一本のこと好きだよ」
「イエーイ、両想い! ライバルだけど」
 親指を立て、笑いながらタカモトは言った。
 本当は。
 あたしの樋口への想いは、恋愛感情とは違うものだった。父に対する想いをぶつけていただけだ。それに、もう気づいてしまっていたけれど。
 でも、あたしはタカモトを見て、口の端を上にあげてみせる。成功していたのなら、したり顔で余裕に微笑んでるように見える筈だ。
「ライバルなのに、じゃない?」
「いんだよ。ライバル同士で両想いだなんて、なかなかないぞ」
 タカモトはそう言って、ふにゃふにゃの猫毛よりもふにゃふにゃに笑った。



 この時のタカモトが、実はヘッドホンをつけていなかったことを知ったのは、その日の午後。
 ……あんまりにも腹が立ったもんだから、また絶交してやった。

モドル |  ★  | モクジ


面白かったら、クリックして下さい↓

よかったら、感想を聞かせて下さい。 

ひとり感想フォーム
ご感想をひとことどうぞ。無記名でもO.K.


ヒトコト

Copyright (c) 2000 Sumika Torino All rights reserved.